あたまの図書館

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杉江修治『協同学習入門』①

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世の教育界の間違った認識を言います。

 

 

 

 

 

協同学習は手法じゃない。

一斉指導であっても、協同学習はできるのです。

堀先生の著書を読んで、本書と重なる点が多くありました。

 

threepocari.hatenablog.com

 

 

みなさんは協同と競争の違い、詳しく説明できますか?

 

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堀裕嗣『一斉授業10の原理100の原則』

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授業づくりには教師の仕事のすべてが凝縮されている

 

冒頭の一文で背筋が伸びた。

時代の主流となっている「協同学習」や「ファシリテーション」。

それらを機能させるためには、子供たちを納得させたり捌いたりする手法を身に着けなければならない。まさに、その通りだ。一斉授業の中で、ヒドゥンが生まれている。子どもが「教師を見る」大部分は一斉指導場面だ。この一斉指導を上手く成立させなければ、すべての教育活動に影響が出てしまう。

 

この本は何度か読み返しているが、今回は「説明」の部分が印象に残った。

教師はもっと、語らなければならない。

 

インストラクションの原理―学習趣意の明確化―

なんのためにそれを学ぶのか、子どもたちにはっきりと伝えるのです。授業において教師が<学習趣意>を語り、授業の<目的>を明確にすると、子どもたちは見違えるほどに授業に集中して取り組むものなのです。

 たしかに、先が見えないまま授業を進めていても子どもは乗ってこないだろう。授業研究会などに参加した時の自分がそうであるように。<目的>や<価値>を語ることが重要なんだ。堀先生は、学習趣意を明確化することを<インストラクション>としており、6つの大切なことを述べている。

 

1、学習事項の価値

その授業における学習事項が実用的なものであれば社会に出てどのように役に立つのか、教養的なものであればどのように自分自身の生活を豊かにするのか、それをできれば具体例を挙げて説明します。

 割り算の勉強であれば、「今日の授業が終わったころには、兄弟でお菓子をバランスよく分けることができるようになるよ」とかかな。理科の蒸発を勉強するときなんかだったら、「みんな、昨日まであった水たまりがなくなってる!って思ったことない?今日はその秘密がわかるようになるよ」とかどうだろう。

 

2、授業のフレーム

その授業のフレームが<知識>を得ることなのか<技術>を身に着けることなのか、或いは既に習った<技術>に使い慣れることなのか、それとも既習事項からふさわしい<技術>を考え判断することなのか、そうしたことを明確に規定する必要があります。

 この授業の目的が「習得」「活用」「探究」のどれにあたるかを伝える。「今日の授業は、掛け算のひっ算のこの問題を、教科書のこの解き方を使って解けるようになることだよ」とか。「今までの学習のまとめのページを、全問解けるようにしよう」とかかな。

3、到達すべき目標

その授業の学習事項を何をもって到達したと判断できるのか、その到達目標を明確にしてあげることも<インストラクション>の大切な要素です。

 「~がわかる」「~ができる」など「ここまで到達すればいいんだよ」という規準を教師が伝えてあげることが大切。堀先生が昨今の子どもたちには、やるべきことを理解し、やるべきことの目的がわかり、到達すべき目標を理解したとき、教師が驚くほどの集中力をもって取り組む傾向があるとおっしゃっている。まさに、その通りだと思う。というか、僕自身もそう。大人子供かかわらずその傾向はあると思う。これをもとにした授業計画シートをつくろうかな。

 

4、目標到達への方法

何をどうすれば目標に到達できるのか、その<方法>の説明は<インストラクション>において最も大切な要素です。

 「教科書のこのページを見て」とか「調べたり実験して」とか「友達にアドバイスをもらって」とかになるのかな。友達と交流する場合は交流の仕方まで詳しく伝えなければ。モデリングをしたり。

 

5、方法の価値

なぜこういう読み方をしなくてはならないか、なざこのような検証の方法をとるのか、小集団で交流することにどんな価値があるのか、そうしたことを将来の社会生活との関連で具体的に語ってあげると、子供たちの意欲が驚くほどに高まるものです。

 自分はどれほど語れているだろうか。語ることのできる大人になろう。それも、一貫して語ることができる内容の芯が必要だ。

 

6、子どもたちへの励まし

下位の子どもたちは自分がその学習活動にちゃんと取組めるのかと、自信をもてないでいるものです。教師は「大丈夫。きみにもできるよ。自信をもって取り組め」と励まし続けなければなりません。

 これは意識的に取り組めているかな。

 

以上、インストラクションのポイントでした。このほかにも、「説明の命は具体例だ」「事象の説明の命は見える化だ」「方法の説明の命は見通しだ」「事前に起こりうるミス事例を伝える」など、説明に対してこんなに細かく考えるのかというところまで考えられている。

「説明」は、「発問」と「指示」を支えるもの。どんなに優れた発問や指示も、説明がしっかり伝わっていなければ機能しない。前回の記事で指示が僕の課題と言ったが、説明も、3学期の僕の課題だな。

 

今日の記事の内容は、この本のほんの一部。まだまだ学ぶ内容は盛りだくさん。とくに若手教師は、必読の書ではないでしょうか。

『授業力&学級経営力』2018.01 No.94

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授業名人だけが知っている超一流の指導技術

 こんな素敵な見出し、読まずにいられない!

明治図書さん、ありがとうございます。

全ての若手教員に配布してほしいぐらいだ…。

 

さて、授業編は、授業技術が5つの視点でまとめられています。

8人の授業名人たちがその視点に対して実践を載せてくれています。ありがたや。

 5つの視点は以下の通り。

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境野勝吾『超訳 菜根譚』

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中国の古典『菜根譚』を作者が訳したハウツー本。

 

菜根譚」は私たちの生き方にやさしく寄り添ってくれる本です。

「菜」は野菜。「根」は大根。「譚」はお話。

野菜や大根のように、誰もが気楽に読めて考えられる本。

 

何か力が入りすぎている人にこそ、読んでほしい。

意識高い系と呼ばれている人にこそ、読んでほしい。

何気ない毎日の中で幸せに気づくためのヒントが満載です。

 

僕が読んでいていいなと思った箇所を紹介したいと思います。


田地は放ち得て寛きを要す

→「どちらでもいい」という寛大な心を持つ

早くやるのもいい。が、ゆっくりやるのもいい。

うまくいくといい。が、うまくいかなくてもいい。

早くやれなければダメだという思考を捨てる。

うまくいかなければダメだという思考を捨てる。

物事には良い面も悪い面も必ず備わっているのだから。

だからこそ、「こうあらねばならない」という枠組みを作らずに、世界を見ることが大切なんだなあ。

直にして矯に過ぎず

→なにごとも「度を超さない」ところに、正解がある

甘いものは、うまい。でも甘すぎると、まずい。

正しい意見は大切。でも正しすぎると苦しい。

大好きな重松清さんの小説『ファミレス』の中に「それは正しいけど、やさしくはないです」という言葉があった。

たとえ、正しいことであっても、行き過ぎないように注意しなければならない。

度を超した先には、自分本位が待っている。

そのような態度で、だれが幸せになるだろうか。

 

みんなが幸せになるためには、心に余裕が必要だ。

余裕をもって臨むためには、のめりこみ過ぎないことが大切だと気付かされた。

ふっと力を抜いて、周りに目を向けることが大切だと気付かされた。

菜根譚の言葉(あくまで著者の訳だけど)を読むと、肩の力がふっと抜ける。

もっと自然を感じようと思う。

自分はあくまでも自然の中に生きるひとりの人間なんだと分かる。

自分一人の力なんて、たかが知れている。

それなのに、度を超して取り組むあまり、ひとりの世界に入って、自分本位になってしまう。

実際、僕もそう。

 

何でかわからないけれど、気を張って過ごす人が多い現代。そんなときは、ふっと肩の力を抜いて、周りに目を向けてみよう。大切なことは、野菜や大根のように身近にあるのだから。

重松清『きみの友だち』

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「友だちってなんだろう」

そんな問いに対して、ヒントを与えてくれる小説です。

 

お話によって主人公が変わり、時間軸も変わります。

長編小説なのに、短編のお話が過去や未来をいったりきたりする感じ。

それなのに、最後しっかりとまとめられている。

気が付けば重松さんの世界に引き込まれていました。

 

この小説で引っかかった点がいくつか。

 

病気で友だちの由香が休み、会えない状況にて。

「寂しくないの?」

「寂しくないよ、別に。」

「…友だちなのに?」「友だちになるときって…その子とずーっと一緒にいたいから、だから、友だちになるんじゃないの?そういう子のことを友だちって言うんじゃないの?それが親友なんじゃないの?」

「わたしは、一緒にいなくても寂しくない相手のこと、友だちって思うけど」

 

ほかにも、

「友だちって…和泉さん、教えてよ、知ってるんでしょ?友だちって、何?」

「知らない」

「だったら、由香ちゃんは?和泉さんの友だちじゃないの?」

「由香は、由香」

「だって…」

「誰のものでもないから、由香は。わたしもそうだし。」

 

なんというか、お互いの人格を尊重しているんですよね。

ひとりの人間として認めて、尊重している。

相手を自分に合わすこともしないし、自分が相手に無理に合わせることもない。

自然体でいる感覚。

みなさんもそうだと思いますが、

友達って自然体でいつまでも一緒に時間を過ごせるなーって思うんです。

変な気とか遣わずに。ながーく、ゆるーく一緒に過ごせる。

 

この小説は、『みんな』に合わせて自分を殺している人物が多く出てきます。

『みんな』の望む自分でいなければ…。

『みんな』の機嫌を損ねないようにしなければ…。

『みんな』が言っているから…。

 

自分を殺してまで繋ぐ関係になんの意味があるのか。

その関係は友達と呼べるのだろうか。

それぞれのお話の主人公たちは苦悩します。

 

 

この小説の題名は、

「友だち」

ではなく

「きみの友だち」

 

思春期の女の子に読んでほしい一冊でした。

 

二年目教師の備忘録③【ミックス】

今日は職場の先輩と乗り合わせて、インフルエンザの予防接種に行ってきました。

学年も違い、普段なかなか話す機会がない先輩だったのですが、帰り道にラーメンに誘われ一緒に食事することに。ありがたいことに、車を出してくれたからと言って奢ってもらいました。親子ほども歳の離れた先輩です。

 

すごく嬉しかった。

 

自分もそのようなことをしたい。しよう。

今日はそこで教えていただいたありがたい話を忘れないために、更新します。

 

ミックス】の話です。

先輩の休み時間の合言葉はミックス。

男女が仲良く一緒に遊ぼうよという意味です。

実際に、先輩のクラスは男女の仲が良く、校庭で男子と女子が一緒になって遊んでいるのを見かけます。

 

なぜミックスを合言葉にしているのかが大切です。

男女一緒に遊ぶことは良しとされていますが、なぜでしょうか。

その理由を先輩が教えてくださいました。

 

男子と遊ぶことで、カラッとした空気が生まれる。

グループ化した女子特有のジメッとした空気が、男子が入ることで緩和されていく。

それを繰り返しているうちに、全体の空気がカラッとしてくる。

 

男女の仲が良いクラスは、カラッとした空気が流れているとのこと。

そういったクラスはまとまりやすい。

授業内での交流場面もスムーズにいく。

これは先輩の経験談ですが、大ベテランで、たいへん実力のある先輩です。

学級経営がうまく、私は尊敬しています。

その先輩がいう言葉だからこそ、ビビッと感じるものがありました。

 

カラッとしている空気のことをもう少しふみこんで考えてみると、

子ども同士の関係が開けているってことかな。

関係を閉ざさないってすごく大切だよなあ。(教師にも言えることだけど)

閉ざされた集団の中じゃ、もちろん安心できないし、安心できないとのびのびできない。

男子が女子にうまく機能しているクラスは、

良い意味で子どもらしさが全開になるんじゃないだろうか。

壁を作って、無理に大人びた振る舞いをするんじゃなくて、

大口開いてあっはっはと笑う。全力で生きているというか。

表裏のない行動をとる愛すべき馬鹿というか。

 

女子グループの壁を崩すのは男子。

カラッとした空気を教室につくる。

そのためには、休み時間を楽しむこと!

 

先輩の想いに触れられてよかった。

こうやって、職員の知識が伝達されていくことが理想だよなあ。

ベテランの知識が若手に伝達されることが大事。

経験で得た学びを伝えるってすごく重要。

それなのに、そういった場って、なかなか確保されていない(できていない)。

職場の研修システム、改善の余地ありだと思います。

 

将来、後輩にこの記事の内容を語れるようになろう。