『おうちでできるモンテッソーリの子育て』
なんだか学んでしまうと「やらねばいかん」という気持ちに苛まれそうで手に取っていなかったのですが、やっぱり知らないままも嫌だなあと思いザっと読んでみました。
ところがどっこい。「こうしなさいよ」という押し付け感はあまりなく、あくまでも自然体。生活に寄り添うような内容でした。
ざっくりというと、
モンテッソーリ教育とは、子どもが身の回りのことを「自分で」することで、さまざまなことを学んでいくものです。
大人たちは、子どもが「自分で」やるために、支援をします。
「『ひとりでできること』を手伝ってください」
モンテッソーリ教育の創始者、マリア・モンテッソーリが残したこの言葉に、
全てが詰まっていると思います。
なんだ、そういうことか~と思いました。
我々大人は、先回りをしてやってあげるのではなく、子どもが「ひとりでできること」を応援する支援者として力を尽くします。
例えば、
・環境を整える(子どもサイズの道具を用意する、時間や空間など、範囲を制限する等)
・言葉がけをする(共感、手を出すときは「手伝ってもいい?」の一言をかけてから等)
自分もこれは大事だなと前から思っていたので、すんなり腑に落ちました。
しかし、これは頑張らねばと思う内容が…。
それは、か・た・づ・け。
子どもが自分でできることの中の代表格として、遊んだ後の片付けがあります。
本書でも推されていた片付けですが、いかんせん大人ができていない…。
子どもと「共に」がんばるかな。がんばっている大人の姿を見せて、一緒にやろうよって。
ちなみに家庭でモンテッソーリ教育を取り入れる際の4つのポイントは以下の通りだそうです。
①「自由」と一緒に「制限」を
「制限」とはズバリ、ルール。「自分やほかの人や環境を傷つけちゃダメだよ」ということ。「制限」があることで、安心感が生まれるのだという感覚。
②「秩序」を保った環境で
「秩序」とは、環境や習慣を一定に保つこと。いつもの日課や毎日置いてあるもの、人。幼ければ幼いほど秩序が必要なんだとか。
③大人は見られている意識をもつ
子どもたちは大人から人間になる方法を学んでいる。
④「お客さん」ではない役割を
子どもは「お客さん」ではなく「家族の一員」。
他にも自然と関わったり、粗大運動をしたりといろいろありそうですが、
こんなところで。
斎藤喜博『授業の展開』
このような時期だからこそ、斎藤喜博先生の著書を手に取ってみた。
最近ではお笑い第七世代という言葉を目にすることが増えてきたけれど、
教員の世界にも世代をつけるとするならば、齊藤喜博先生は教員第一世代。
教員界のTHE・レジェンド。
この本の感想を一言挙げるとするならば、頭をガツン!と殴られた感じだ。
以前にも同じ感覚を覚えたことがある。
「授業の主体は人間である」と繰り返される齊藤先生の主張に、今までの自分はいかに形式的な授業をしていたのか痛感させられた。
「学校教育は、生きた人間と人間、人間と教材との接触・衝突の中で機能を発揮する」と仰られている。
この書籍には、エピソードが多く載せられている。その中で「実際に発問をし子どもがそれに反応していくとき、教師がまたそれに反応して、子どもの思考を意義づけたり、発展させたり、他の子どもの思考とつなぎ合わせたりすることができていなかった。」と、授業を参観した感想が書かれている。まさに自分のことを言われていると思った。
齊藤先生の考えるよい授業は、「教師が生身の人間としての教材解釈をもち、方法プランをもっており、それを生身の人間である子どもと授業のなかで激突させ、そのなかで自分の解釈も方法も変更していくような質の授業」だと書いてある。
授業は生き物。流動的なんだ。
なんだか最近、「ねらい」に向かって、子どもたちが活動し、交流し、ホワイトボードにまとめてハイOK。のような授業をしていた。
生身の人間同士がぶつかるような授業はまるでしていない。
お行儀よくまとめて、教材の深みに、思考の林に入らない授業。極めて形式的な授業。
心の交流の少ない授業。
齊藤先生の仰るような授業には、人間的にまだまだ到底及ばない。
だがせめて、毎日の積み重ねで少しずつ近づきたいと思う。
まずは、デザイナーとしての観点。
①その授業の目的を明確にする。
②目的達成のための発問を考える。
授業展開を保障する条件の中で大切なこととしてあげられていた。
授業の焦点化。堀先生の著書から言葉を借りると、「メインターゲット」を決める。
③子どもの反応を予想しておく。
④それに対し、問い返しを用意しておく。
子どもの反応に対する教師の反応まで考える。もちろん、授業の目的に近づくためのものという基準で教師の反応を考える。
つぎに、アクターとしての観点。
①全体指導場面での子どもとの対話を大切にする。
この意識を大切にする。T-Cの対話。
②子どもの表情を見て問い返しをする。
意見をつなげたり、意義付けたり、発展させたりする。
子どもが頷いたり、笑顔でハッとしたり、「わかった」と思ったとき、すぐその子に問いかけることができるようにしておく。
③机間指導で意見を把握しておく。
全体指導前に大切な下準備。
授業のパターンは大切にしつつも、形式的な授業から脱却しよう。
全体指導場面での対話が、今年度の課題だな。
『よくわかる学級ファシリテーション②』子どもホワイトボード・ミーティング編
こちらも再読。
ホワイトボード・ミーティングに焦点が当たりがちだけど、その前段階こそが、この本の肝だと思う。
本書は、ホワイトボード・ミーティングを行うまでのプロセスを修行として掲載している。その中でも、自分がまずやってみようと思えたのは、修行その①「質問の技」だ。
オープンクエスチョンの達人を目指し、ペアコミュニケーションを積み重ねていく。
このときのポイントは、「好意的な関心の態度」
ちゃんと話を聞いていますよー!という態度を相手に伝える聴き方をすること。
あいづちが大切なんだな。反応は相手の存在を承認すること。
ペアコミュニケーションを繰り返すことで、クラスのコンフォートゾーンが広がっていくのかもしれない。
ペアコミュニケーションのインストラクションでは、「言いたくないことは、言わない。言えることだけでOKです。」と伝えている。こういう細やかな配慮が安心を生むのだろうな。なんだか、すごい実践にばかり目が移りがちだけど、やっぱりこういう細やかな部分があるからこそ、実践が成立していくのだろう。
神は細部に宿る。忘れないようにしよう。
Action Plan
・朝の会でペアコミュニケーションを積み重ねる。
その目的は、
①オープンクエスチョンを身に付けて、言語活動の底上げをするため。
②あいづち、好意的な関心の態度を身に付けて、クラスの安心・安全の場を広げるため。
新年度からやってみます!
『よくわかる学級ファシリテーション①かかわりスキル編』幸せな子ども時代のために
何度も、何度も、読み返している本。
ちょんせいこさんの講座に行って、サインを頂いたのが5年前。
そのときは大学生だった。
サークルの会議を進行を任されていたこともあり、ファシリテーションにハマっていた時期。
当たり前だけど、「何でもやりたいやりたい」と思っていた大学時代と今では、違うところが刺さる。
昔は実践ばかりに目を惹かれていた。だけど、今ではその根底にある価値観が響く。
・じゃあ、今から3分間で何人のことできるかチャレンジします。何人くらいとできそうかな。
・さっき、ふたりでやっていて、相手を探してウロウロしている子がいたよね。そういうときは、どうすればいい?
・クラス目標のなかにあるどれかを意識して、チャレンジしようね。どれがいい?
・じゃあ、「みんなが中心、みんなが楽しいクラス」っていう目標に近づくことを意識して、チャレンジしようね。そのためには、具体的にどうしたらいいと思う?3つ意見を募集します。
インストラクション中に子どもに問いかける回数が多い。
その中で、子ども自身に自己選択・自己決定をさせている。
こういった些細なことの積み重ねなんだろうな。
「楽しい雰囲気をつくる」という目的ではない。そのさらに上。
「セブンイレブンじゃんけん」というたった1つのレクの中で、子どもたちの状態をアセスメント(評価)して、安心・安全な場をつくっている。
さらには、クラス目標の意識づけ、振り返りまで。
こういうところが、ファシリテーターとしての技術なんだよなあ。
ファシリテーションの技術を通して、在り方を学べる本。
Action Plan
・子どもたちが自己選択・自己決定できるような「問いかけ」を日常に取り入れる。
ビジョンとやらされ感
白ひげの名言を胸に。
子どもたちは、居場所をつくるためならなんだってする。
平気で人を傷つける。
あたかも自分が一番傷ついているかのように、周囲の人は傷ついたことがないかのように振る舞う。
そんなとき、意識したい『ワンピース』の海賊、白ひげの名言。
バカな息子を
ーーーーーそれでも愛そう…
ワンピース読者なら誰もが知っている名言。
敵に騙されて自分を刺した仲間(スクアード)をがばっと抱きしめる白ひげ。
スクアードのすべてを丸ごと受け止める器の大きさが感じられます。
ボクたち教師にも、そんな器の大きさが必要なんじゃないか。
攻撃してくる子は、攻撃しなければ自分を保てないほど必死なんだ。
そんな子どもに対して、「ダメでしょ!」「人を攻撃するなんて、お前はなんてやつだ!」「ウェアアアアアア!!」と言うことは正しいことなのかもしれない。でも、やさしくない。
子どもはたくさんのことを抱えている。攻撃だって、したくなるだろう。
そんな子どもを丸ごと受け止める。攻撃してくる姿勢も、丸ごと受け止める。
攻撃を攻撃と思わない。
子どもからのメッセージだと捉える。
明日も、精いっぱい生きている子どもたちを、笑顔で包み込もう。
彼女らの苦しみが、少しでも緩和されるように。
いつまでも狭い世界で苦しまないで。
岩瀬直樹(原案)『きょうしつのつくり方』
- 作者: 岩瀬直樹(原案),プロジェクトアドベンチャージャパン(PAJ),荻上由紀子,苫野一徳,寺中祥吾
- 出版社/メーカー: 旬報社
- 発売日: 2015/11/16
- メディア: 単行本
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きょうしつの中の物語を見ることができる絵本。
絵本部分と解説部分に分かれていて、絵本部分にはあえて「文字」がない。
読者に想像させてくれる。子どもたちの1年間が絵本として21ページにギュッと詰まっている。
ボクは、子どもたちが帰った後のきょうしつで、この本をじっくりと読んだ。
なんか、心が広くなったような気がする。子どもたちを見る眼差しが温かくなるような気がするというか…。
つい、「学級の一員」としての子どもに目が行きがちなボクたち。
「学級の一員」として、こうあるべきだとか、なんでこの子はいつもこうなんだろうとか、思ってしまう。
だけどこの本を読むと、どの子にも物語があるんだなとわかる。
その子がどんな子なのか、その子の背景になにがあるのか、その子は今までにどんな気持ちを味わってきたのか、そんなことを考えると「学級の一員として」という言葉で子どもを見ることはできないんじゃないかな。
解説の中で、岩瀬先生が「凝集性の違和感」という言葉をつかっている。
本当にそうだと思う。凝集性のなかで、苦しんでいる子だっている。
高学年女子のグループなんかを想像するとわかりやすいかな。
凝集性が生み出す排他性はかなりキツい。
「学級の一員として」の責任を強要するのは、なんか違うよなあ。
お互いがお互いを、自然に、温かく、受け入れられるように。
ゆるやかなつながりの中で、その子の気持ちを尊重できるように。
不適切な行動だって、温かく見守られるように。待っているよと、伝えられるように。
う~ん。
記事を書いているうちに、温かく、ゆるやかなつながりは、相互尊敬に支えられているなと思ってきた。
それぞれの子の物語に目を向けてみる。
この本、子どもに温かく接したいなあと思っている人に、おすすめです。