境野勝吾『超訳 菜根譚』
中国の古典『菜根譚』を作者が訳したハウツー本。
「菜根譚」は私たちの生き方にやさしく寄り添ってくれる本です。
「菜」は野菜。「根」は大根。「譚」はお話。
野菜や大根のように、誰もが気楽に読めて考えられる本。
何か力が入りすぎている人にこそ、読んでほしい。
意識高い系と呼ばれている人にこそ、読んでほしい。
何気ない毎日の中で幸せに気づくためのヒントが満載です。
僕が読んでいていいなと思った箇所を紹介したいと思います。
田地は放ち得て寛きを要す
→「どちらでもいい」という寛大な心を持つ
早くやるのもいい。が、ゆっくりやるのもいい。
うまくいくといい。が、うまくいかなくてもいい。
早くやれなければダメだという思考を捨てる。
うまくいかなければダメだという思考を捨てる。
物事には良い面も悪い面も必ず備わっているのだから。
だからこそ、「こうあらねばならない」という枠組みを作らずに、世界を見ることが大切なんだなあ。
直にして矯に過ぎず
→なにごとも「度を超さない」ところに、正解がある
甘いものは、うまい。でも甘すぎると、まずい。
正しい意見は大切。でも正しすぎると苦しい。
大好きな重松清さんの小説『ファミレス』の中に「それは正しいけど、やさしくはないです」という言葉があった。
たとえ、正しいことであっても、行き過ぎないように注意しなければならない。
度を超した先には、自分本位が待っている。
そのような態度で、だれが幸せになるだろうか。
みんなが幸せになるためには、心に余裕が必要だ。
余裕をもって臨むためには、のめりこみ過ぎないことが大切だと気付かされた。
ふっと力を抜いて、周りに目を向けることが大切だと気付かされた。
菜根譚の言葉(あくまで著者の訳だけど)を読むと、肩の力がふっと抜ける。
もっと自然を感じようと思う。
自分はあくまでも自然の中に生きるひとりの人間なんだと分かる。
自分一人の力なんて、たかが知れている。
それなのに、度を超して取り組むあまり、ひとりの世界に入って、自分本位になってしまう。
実際、僕もそう。
何でかわからないけれど、気を張って過ごす人が多い現代。そんなときは、ふっと肩の力を抜いて、周りに目を向けてみよう。大切なことは、野菜や大根のように身近にあるのだから。
重松清『きみの友だち』
「友だちってなんだろう」
そんな問いに対して、ヒントを与えてくれる小説です。
お話によって主人公が変わり、時間軸も変わります。
長編小説なのに、短編のお話が過去や未来をいったりきたりする感じ。
それなのに、最後しっかりとまとめられている。
気が付けば重松さんの世界に引き込まれていました。
この小説で引っかかった点がいくつか。
病気で友だちの由香が休み、会えない状況にて。
「寂しくないの?」
「寂しくないよ、別に。」
「…友だちなのに?」「友だちになるときって…その子とずーっと一緒にいたいから、だから、友だちになるんじゃないの?そういう子のことを友だちって言うんじゃないの?それが親友なんじゃないの?」
「わたしは、一緒にいなくても寂しくない相手のこと、友だちって思うけど」
ほかにも、
「友だちって…和泉さん、教えてよ、知ってるんでしょ?友だちって、何?」
「知らない」
「だったら、由香ちゃんは?和泉さんの友だちじゃないの?」
「由香は、由香」
「だって…」
「誰のものでもないから、由香は。わたしもそうだし。」
なんというか、お互いの人格を尊重しているんですよね。
ひとりの人間として認めて、尊重している。
相手を自分に合わすこともしないし、自分が相手に無理に合わせることもない。
自然体でいる感覚。
みなさんもそうだと思いますが、
友達って自然体でいつまでも一緒に時間を過ごせるなーって思うんです。
変な気とか遣わずに。ながーく、ゆるーく一緒に過ごせる。
この小説は、『みんな』に合わせて自分を殺している人物が多く出てきます。
『みんな』の望む自分でいなければ…。
『みんな』の機嫌を損ねないようにしなければ…。
『みんな』が言っているから…。
自分を殺してまで繋ぐ関係になんの意味があるのか。
その関係は友達と呼べるのだろうか。
それぞれのお話の主人公たちは苦悩します。
この小説の題名は、
「友だち」
ではなく
「きみの友だち」
思春期の女の子に読んでほしい一冊でした。
二年目教師の備忘録③【ミックス】
今日は職場の先輩と乗り合わせて、インフルエンザの予防接種に行ってきました。
学年も違い、普段なかなか話す機会がない先輩だったのですが、帰り道にラーメンに誘われ一緒に食事することに。ありがたいことに、車を出してくれたからと言って奢ってもらいました。親子ほども歳の離れた先輩です。
すごく嬉しかった。
自分もそのようなことをしたい。しよう。
今日はそこで教えていただいたありがたい話を忘れないために、更新します。
【ミックス】の話です。
先輩の休み時間の合言葉はミックス。
男女が仲良く一緒に遊ぼうよという意味です。
実際に、先輩のクラスは男女の仲が良く、校庭で男子と女子が一緒になって遊んでいるのを見かけます。
なぜミックスを合言葉にしているのかが大切です。
男女一緒に遊ぶことは良しとされていますが、なぜでしょうか。
その理由を先輩が教えてくださいました。
男子と遊ぶことで、カラッとした空気が生まれる。
グループ化した女子特有のジメッとした空気が、男子が入ることで緩和されていく。
それを繰り返しているうちに、全体の空気がカラッとしてくる。
男女の仲が良いクラスは、カラッとした空気が流れているとのこと。
そういったクラスはまとまりやすい。
授業内での交流場面もスムーズにいく。
これは先輩の経験談ですが、大ベテランで、たいへん実力のある先輩です。
学級経営がうまく、私は尊敬しています。
その先輩がいう言葉だからこそ、ビビッと感じるものがありました。
カラッとしている空気のことをもう少しふみこんで考えてみると、
子ども同士の関係が開けているってことかな。
関係を閉ざさないってすごく大切だよなあ。(教師にも言えることだけど)
閉ざされた集団の中じゃ、もちろん安心できないし、安心できないとのびのびできない。
男子が女子にうまく機能しているクラスは、
良い意味で子どもらしさが全開になるんじゃないだろうか。
壁を作って、無理に大人びた振る舞いをするんじゃなくて、
大口開いてあっはっはと笑う。全力で生きているというか。
表裏のない行動をとる愛すべき馬鹿というか。
女子グループの壁を崩すのは男子。
カラッとした空気を教室につくる。
そのためには、休み時間を楽しむこと!
先輩の想いに触れられてよかった。
こうやって、職員の知識が伝達されていくことが理想だよなあ。
ベテランの知識が若手に伝達されることが大事。
経験で得た学びを伝えるってすごく重要。
それなのに、そういった場って、なかなか確保されていない(できていない)。
職場の研修システム、改善の余地ありだと思います。
将来、後輩にこの記事の内容を語れるようになろう。
学級懇談会にて
印象に残った保護者の方の言葉がある。
些細なことかもしれませんが、先生がYさんが「これでいい?」って聞いたときに、「それを判断するのは先生じゃないよ。自分で不安なら友達に確認してみな」という言葉をおっしゃていて、子ども達が自分で判断することを大切にしているんだなあという事が伝わってきました。
先生のお便りにもありましたが、遊びを自分達で考えてみんなで取り組んだり、本当にいい経験をさせてもらっていると思います。先生のお便りを楽しみにしています。
些細なことかもしれませんが、先生がYさんが「これでいい?」って聞いたときに、「それを判断するのは先生じゃないよ。自分で不安なら友達に確認してみな」という言葉をおっしゃていて、子ども達が自分で判断することを大切にしているんだなあという事が伝わってきました。
→「なかよしカルタ」を作るという場面で「なかよしカルタ」の判断基準は、読んでも採っても気持ちが良くなるカルタというように提示していた。その判断をYさんに求められていた場面でのことだ。観ている人は見ているんだなあ。
先生のお便りにもありましたが、遊びを自分達で考えてみんなで取り組んだり、本当にいい経験をさせてもらっていると思います。先生のお便りを楽しみにしています。
→クラス会のこと。子ども達の自己決定の場があることを肯定的にみてくれた。さらにお便りを楽しみにしていると言ってもらえてものすごくうれしくなった。子供たちの様子を伝えるってやっぱりすごく大事。
また、子ども達の家での様子を聞く時間には、「頑張ってほめてもらいたい」という女の子の親がいた。自分ができる分、人にそれを求める、何を聞いても見栄を張って弱いところを見せないという。
たしかに学校でもその通り。やっぱ、お家の人はわかっているんだなあ。わかっていてもどうにもできないから悩んでいるんだろうな。
「言う事を聞かせようとしてたくさん指示を出しているが、いう事を聞かない。怒ると私以外の家の人に怒りすぎるなといわれる。でも悪いことを悪いと言わないといけない。怒っても駄目だし、怒らなくても駄目だし、どうすればいいの」という悩みを抱えているおうちの方もいた。
「怒る事」ありきで考えると辛いよなあ。しかし、それを新卒二年目の自分がアドバイスをしても響かない。学校での子どもの様子に対して、やんわりと価値づけしていく学級通信を発行しようか。苦しみから救ってあげたい。子供の将来のためにも。
関わりの中でもっと自分を出せるようになってほしいと願う親もいた。悩みはそれぞれ。みんな抱えている。その悩みに対して自分は何ができるか。
そして思ったのは、子供たちには学校はもちろんそうだが、家庭でしっかり成功してほしいということ。子どもも保護者も。一番はそこ。俺はそこにどうアプローチできるだろうか。
PTA講演会では待つことの重要さを伝えていた。保護者は待つことの難しさを話題にしていた。分かるなあ。かわいいからこそ、指摘したいんだよなあ。でもそれが優越コンプレックスになってはいけない。気をつけてほしい。ほかにも、ボウルビィのアタッチメント理論についても触れられていて、大学時代を思い出し懐かしくなった。安全基地が大事。子どもが成長するには一歩踏み出すチャレンジが必要。チャレンジをするためには、いつでも戻ってこれる安全基地が必要。子供だけでなく、おうちの方にもアプローチしていきたいな。
子ども達の力【0から始めたサッカー】
私のクラスでは、クラス会議を行っています。
早いもので、先週のクラス会議でもう11回目となりました。
赤坂版「クラス会議」完全マニュアル 人とつながって生きる子どもを育てる
- 作者: 赤坂真二
- 出版社/メーカー: ほんの森出版
- 発売日: 2014/01/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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先週の議題は、「サッカーをしたい」でした。
男の子が出した議題です。
続きを読む子どもを温めるロルバーンメモ【勇気づけ】
今日から子どもを温めるためのメモ(愛用ノートはロルバーン)を始めました。
始めてみると「子どもたちのいいところを探すぞ~」という目線で子どもを見るので、こちらも温かくなる感覚がありました。しかし、一日やってみて感じました。
この実践、「褒め」ノートにしてはいけないということ。
あくまでも子どもたちの心を温めることが目的。
褒めることは「評価」に捉えられることもあり、子どもの心を純粋に温められない危険があります。
ではどうすれば子どもの心を温められるか。
私は、心が温まるのは、「存在を認められたとき」だと考えています。
自分自身の価値を認められたときです。
自分がいいことをした、悪いことをしたにかかわらず、自分の存在を認められたときです。その子の存在を丸ごと包み込むイメージです。
「行動」がどうであったとしても、その子の「人格(存在)」は紛れもなく価値があるものだと捉える覚悟が大切だと思います。
なので、
「褒め」ノートではなく、「認める」ノートだということを忘れずに取り組んでいきたいと思います。
詳しい内容としては、
Aさん
・できなかった逆上がりができるようになって素晴らしい
ではなく
Aさん
・逆上がりができるように必死に努力を重ねる姿がかっこよかった!
結果よりもプロセス重視の視点で。まさに「勇気づけ」です。
これを機に、勇気づけについて触れておきたいと思います。
勇気づけとは、
「自尊心と自己信頼を築くのを支援するために個人の持ち味と潜在力に焦点を当てるプロセスであり、勇気と信頼を確立するのに欠かせない技術を適用することで現実化する理論」のことです。
引用したのはこの本から。
アドラーに関する教育書はたくさん世に回るようになりましたが、独自の解釈を踏まえられたものも多いです。その中でも、しっかりと理論で語ってくれている岩井さんの本には説得力があります。
勇気づけ、すごく簡単に言うと、「他者が自己受容できるように、こちらからはたらきかけること」だと思います。つまり、「どんな状況であれ、自分自身の存在を認められるよう支援すること」だと考えています。個人的な解釈ですので、ご注意ください。
そんな勇気づけの技術として、以下の7つが挙げられています。
①加点主義(伸びている部分に注目する)
②ヨイ出し(適切な面に注目)
③プロセス重視(共感で寄り添う)
④協力原理(共通の目標に向けて力を生かしあう)
⑤人格重視(人格的な側面に全面的に信頼を置く)
⑥聴き上手(相手を話し上手にさせる)
⑦失敗を受容(失敗はチャレンジの証、学習するチャンス)
今日はもう遅いので軽く触れておくだけにします。
いずれしっかりとアドラー関連についての記事を書きたいなあ。
さ、明日もロルバーンメモを活用しながら子どもたちを勇気づけていくぞ。
発表するときのわくわくした顔、そして発表されなかったときの残念そうな顔を忘れられない。評価の時間ではない。温める時間。忘れずに。